「数式が露呈する純粋さ」
綾門優季
リクウズルーム『アマルガム手帖+』(こまばアゴラ劇場、2016年)では、対話の最中、頻繁に聞き慣れない数式のようなものが挿入されるため、観客は危うく物語の意味を見失いそうになる。数式のようなものというのは「青春を駈け巡る割合=恋する気持ち−負け犬根性」などという合っているのか合っていないのか咄嗟に判断できない言葉の式であり、会話ではなく対話としたのは、先生や生徒や母親といったありふれた設定の登場人物でありながら、何気ない日常会話ではなく、お互いの魂の衝突とでも表現すべき、抽象的で個人的な哲学の絶え間ない往還が劇中、全力で行われているからである。しかしここで重要なのは、複雑なメッセージを伝えようとして複雑なフォーマットが採用されたというわけでは決してなく(それはある意味でとても単純な図式だ)、誰もが生活するうえで薄々感じている、ちょっとした違和感や踏みにじられそうになる純粋さを余すところなく露呈させるために、むしろ意識的に選び取られた方法だということである。鳥公園×リクウズルーム『待つこと、こらえること』(こまばアゴラ劇場、2015年)では俳優がアドリブ(にみえるもの)を度々挿入することで本来の戯曲から加速度的に逸脱していき、それに応じて観客はパフォーマンスに注視する代わりに、物語の理解を半ば放棄せざるを得なかったが、 それとは対照的に『アマルガム手帖+』の高速で蓄積する数式のようなものの羅列は、登場人物が持つ固有の切実な問題意識に最短距離で近づき、物語の核心を明瞭に浮き彫りにすることに貢献している。
『アマルガム手帖+』を見慣れていくに従って、このような言葉の式によってしか言い表せない概念が世界に存在しているにも関わらず、口にしても他者に伝わらないことを恐れて、わたしたちは無意識のうちに、このような感情をなかったことにしてきたのではないか、という不安感に苛まれても決しておかしくはない。そしてそれは決して恥ずべきことではない。
私たちはお互いの姿が実は見えていません。存在の表面だけを私たちは知覚し、1人ではないことを錯覚しています。断っておきますが1人ではないというのは、他人を認め、絆を感じ、人間社会で共に生きていくということを指し示すものではありません。そんなことは、考えるよりも感じるよりも先の前提でしかなく、「私たちはまたも1人になれなかった」と感じなければならないのです。胸が締め付けられて呼吸が早くなっていく時。図らずも生まれてしまった相手との衝突で負った小さな傷に、私たちは共同体としての洗礼を受けるのです。(佐々木透『アマルガム手帖+』、2016年)
『アマルガム手帖+』を観るという行為自体が、わたしたちにとって、一種の洗礼として機能するだろう。それは共同体を捉え直すための契機であり、純粋さを露呈するために必要な各々の手続きを、改めて考えるために有意義な経験となる。
(青年団リンク キュイ主宰、演出家)